基本だけ教えてあとはきっかけを与える程度にしておけば良いのに、最後まで納得いくまで教えてしまう。たまには、最後まで終わっているのにまだグチグチと延長戦まではじまる始末。教える側の自己満足の追求で教育している感はあっても、教わる人自身が自ら行動するようなきっかけを奪い、また自分で考えて欲しいと願うのに考える力を徐々に奪い、先輩の判断を聞き自分で決めない、考えない人にしてしまう。
実は自分の意見を言わず、自分で考えない人に対して、指示だけをきっちり守ってくれる方が機能的な事もある。しかし求めている教育とは逆方向だと感じる人が多数ではないか。
教えた通りにやる人を作ろうとするところに教育の矛盾があって、本来教育は基本だけを教えて、その上で個性や特徴を引き出すことが中心であるはずなのに、教えて教えて教えた結果、教わる人を作ってしまう。教育の矛盾に気づかずに、教わる人の考える力を少しづつ奪っている事に気づかずに、教えまくって、言い聞かせて、言う事を聞くだけの人を作ってしまう。
ルールや秩序は必要だと思う。これは安心感という側面で言えばの場合に限っての事。一方で、何でもマニュアル的に事を進める制度に創造力や新たなアイディアが生まれる事はあるのだろうか?PDCAが体に染み込んでいる人なら改善を目的にした確認作業が必要だと思えるだろうけど、教育段階の人にそれを求めても時期がまだ早いだろう。
想像やアイディアは、従来の常識や経験から外れたところから生まれるもので、かつては良い技術と言われたものは、いずれ一般化し風化していく。時代によって変える、相手によって変える、時と場合によって変える、この変化は創造力が原動力になりそう。
ルールも常識も正しい答えも、常に正しいとは限らない。その時々、相手によって自分なりに考えて行動したり、自分で仮説を立てて、検証してみる。いつも上にお伺いを立てて、誰かの言う事を聞く人を作るのではなくて、自分で判断して自分から行動する人を作るには、その行動を見守りながらそこに間違いはなく、違いという創造力を上の人が引き受ける覚悟と責任があるかどうか。
上の人は見守れるはずです。なぜならば、自分たちが基本を教えた優秀な後輩ですから。きっかけだけ作って、あとは任せる。上の人は覚悟と責任は持つ事が基本。